​プロフィール

命継(きづな)コンサルタント

私は23歳で脳下垂体機能低下症という病気になりました。生命のコントールセンターの中枢が壊れたのです。生きるために必要な脳からの指令が、ほんの少ししか出せなくなりました。でも、全く悲観していませんでした。

 

「もうこの苦しい毎日からサヨナラできる」とホッとしていた感さえありました。

 

 

しかし不思議なことに、幼いころから死ぬことばかり考えていたにも関わらず、「1年後の命すらあてにならない」と「死」に直面したことで、かえって強く「生きる」気持ちになっていたのです。

 

 

幼いころから「早く死んでしまいたい」と思っていた理由の一つは、時々起こる父の家庭内暴力です。お金に不自由なく、わがまま一杯に育った父は、感情のコントロールがうまくできず、お酒を飲むたびに、大暴れしていました。

 

 

私の一番古い記憶は、玄関のドアが開いて、パトカーの赤い電気がピカピカして、お巡りさんが立っていて、その後ろには人がたくさん集まっている、というものでした。それが夢なのか、妄想なのか・・・ずっと気になっていました。大人になってから母に聞くと、私が1歳くらいの時に、そういうことがあったということでした。

不思議なのですが、ドアの向こうを見ている私と、全体像を俯瞰しているもう一人の私がそこにはいたのです。

 

 

とは言え普段の父は、とても優しく子煩悩で、仕事をしている姿はカッコよく、自慢の父でした。「愛情」をたっぷり受けていることは間違いなかったのでしょう、父のことは嫌いではなかったのです。

 

 

三姉妹の長女である私は、母から子どもには少し難しい話をたくさん聞いて育ちました。

父のことも、「母親の愛情が足りなかったから」だと、母親の大切な役割について耳にタコができるほど聞かされてきました。母は父の母親に変わって、父を育て直していたような感じでした。

 

 

そして、ことあるごとに(これは今もですが)、母が自分の母親から教わってきた「傾向と対策」のような智慧を私にも伝えてくれました。その時、必ず母が付け加えていた言葉があります。「今のちはるの年齢では、わからないかもしれないけど、大人になって必要な時が来たら必ず思い出すと思うから、その時の参考にすればいいんだよ。その通りにする必要はないけどね」

 

 

という話を二人の妹にすると、「お姉ちゃんだけずるい。私たちはそういう話を何も聞いていないよ。」ということでしたが、それを母の愚痴だと受け取っていた私は、嫌で嫌で仕方がありませんでした。

 

 

 

病気の話に戻ります。

 

私が病気になったのは、このような環境の中で作られてきた心の状態が大きく影響していることを、これまでの様々な学びを通して、ようやく1本の道になったのです。

 

 

私の病気は微量なホルモンが出なくなったために起こる症状ですが、その微量なホルモンを正確に計測できる機会は、当時はありませんでした。MRIもまだ1時間くらいかかって撮影していた時代です。画像の解析も不十分で「おそらく・・・・だろう」という部分は消せなかったと思います。

 

 

そんな中での病名確定には半年かかりました。

 

 

急速な科学の進歩によって、今ではMRIも15分ほどで明瞭な画像診断ができ、検査も迷うところなく診断できるようになりました。

科学の進歩のおかげで、ホルモンや自律神経についてもわかってきた上に、以前は医学書でしか調べられなかったようなことも、インターネットや本屋さんで苦労なく情報を得ることができるようになり、なぜこのような病気になったのか、幼い頃の私の心と身体は、どのように反応していたのか、その状況と不調を思い出すことで、全てに合点がつくようになったのです。

 

波動、素粒子、振動、エネルギーなども言葉にすると大仰に感じますが、私たちは日々の暮らしの中で、これらの影響を受けながら生きてきました。でも、なぜだか特別なもののように扱ってしまいます。

 

科学とは、見えない世界を見えるものにするための手段だと思います。私の「今」があるのは、見えない世界の役割も大きかったと感じています。いやむしろ、そちらの方が比重が高いかもしれません。

 

私は今、幼いころから探してきた「心穏やかな場所」で暮らしています。特別なことをしたわけではありません。学びのためにかなりの(笑)お金は使いましたが、誰かに何かをしてもらうのではなく、自分で自分を変化させてきました。

 

そして今、死ぬまで必要だと言われていた薬は、不要になりました。

 

 

病気になったからこそ学べたことは計りこと知れません。今となっては、家庭環境も病気も大きな糧となっています。

 

 

子どもは産まない方がいい

不妊治療をしてまで危険をおかすことはない

 

 

私にはみんなに心配されながら授かった一人息子がいます

 

 

私は息子にずっと伝えてきたことがあります。

 

 

幸せは自分の中にあること。自分はここに居るのだから、自分探しの旅に出たら行方不明になっちゃうこと(笑)

 

 

そして

 

自分の目で見て

自分の鼻で匂いをかき

自分の耳で聞き

自分の口で味わい

自分の手で掴み

自分の足で歩いて

自分の肌で感じたことを信じて生きていきなさい

 

 

その土台をお母さんは作ったはずだから

 

 

私は、息子が20歳までは頑張って生きようと

心が折れないように頑張ってきました

 

 

幼い頃は明日私が亡くなっても生きていけるように「心」は繋がっていること「丈夫な身体」は食べものからできていることを毎日毎日話していました。

 

 

そして、いつ肌の触れ合いがなくなるのかわからないので本人が嫌というまで

抱っこすることを心がけていました。(これには他にも理由があるのですが・・・)

 

 

 

 

息子が20歳になる時期・・・

 

 

その期限は50歳でした。

 

 

病気になった時と同じく、命の期限を設定したら

命のある間は輝きをもって生きようと考えるようになりました。

 

 

40歳頃の事です。

 

 

この頃、私は今の夫と一度離婚をし、息子と二人で名古屋に戻りました。

 

 

そして40歳で医療用コンピューターの会社に再就職し

社会人としてリスタートしました。

 

 

その後、しばらくして、学びはじめたのが、マクロビオティックでした。学生時代に食物栄養学を学び、社会人になってからも独学でずっと勉強を続けてきた私にとってその理論は衝撃的でした。

 

 

その時指導してくださった先生が、とても博学な方で、宇宙の法則、言霊のこと、カタカムナ、霊性のことなど、学びの入口が拡がていきました。

 

まさしく「食」から始まった生命(いのち)を継ぐ学びの道。

 

 

 

その後、心理学なども学び、いつしか気づけば、まるで生まれ変わったかのように私は心も身体も変化していました。

 

 

「こんなに毎日が楽しく過ごせるなんて!」

それまでの人生の中で一番幸せを感じていた時期でした。やっと人生が楽しく思えるようになったのです

 

 

あれほど死ぬことばかり考えていた私が、息子が20歳になる少し前に、「もっと生きていたい」と思えるようになっていました。

 

 

その時に神様に約束したことがあります。

 

 

特に宗教を持っているわけではありませんので、ありとあらゆる神様に伝わるように約束しました(笑)

「もし50歳よりも先の人生があったら

その時は世の中の役に立つ活動をします

 

 

もし私にその必要があるのなら

50歳から先の命を私に与えてください。」

息子が関東の大学に入学したのを機に、家族三人で再び暮らすことになったのですが、

50歳の誕生日の前夜、私は夫と息子に神様と約束したことを話し。

 

 

 

「もしかしたら、明日の朝は目覚めないかもしれないから」と

 

感謝の言葉を伝え眠りました、二人は笑っていましたけどね(笑)

 

 

 

 

そして、朝に目が覚めたのです!!

 

「生きてた~」と思ったと同時に、とても神聖な清々しい気持ちでいた感覚は今でも心の中で光の玉になって私の希望の光となっています。

 

 

その日の朝、目覚めた時から私の新しい人生が始まったのです。

「おはよう!私生きてた!」と伝えた時

夫と息子はニコニコして言いました。

「生きてたね!おめでとう!(笑)」

 

 

 

私自身がどのようにして人生を心地よいものに変えることができたのか、息子に伝えてきたのと同じように、少しでも多くの人に伝えるために50歳から先の命を授かったのです。

 

 

これが

いのちの食育 ~命継(きづな)~メソッドが誕生した経緯です。

 

私たちが見ることのできない子どもたちの暮らす未来にまで、その波紋が広がっていることを願って私は講座をしています。